安徳天皇を祀る、赤間神宮 下関市HPより 壇ノ浦の海に、安徳天皇入水のおり沈んだ三種の神器の一つ、宝剣、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。 ところが、ヤマトタケルの忘れ形見の草薙剣は、熱田神宮にご神体として祀られていますね。 その経緯は前の記事にも書きました。 盗難とか、いろいろありましたが、熱田に今なお鎮座し、存在しています。 実はこの草薙剣=天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、諸説はあるものの、有力な説として、壇ノ浦合戦までは二振りあったと言われています。 一つが熱田神宮、もう一つは宮中に。 807年に編纂された『古語拾遺』によると、第十代崇神(すじん)天皇(実在については諸説あり)の時代、天皇は一振りの新しい天の叢雲の剣を製作させています。このとき鏡も新しい鏡が製作されました。 この新剣は旧剣と同じ寸法、形で、霊威も劣らない剣。ですから古語拾遺に従えば、崇神天皇以降、天叢雲剣は二振り存在していたことになります。 旧剣(オロチのしっぽから出たとされる剣)は、皇居内のアマテラスを祀る社壇に納めていたのですが、つぎの第十一代垂仁(すいにん)天皇のとき、伊勢神宮が創始されたおり、旧剣はどうやら伊勢に移され、新剣のほうが宮中に留まったとみられています。伊勢神宮 皇大神宮(内宮)→ 天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る そして第十二代景行(けいこう)天皇のとき、第二皇子のヤマトタケルが伊勢神宮から、旧剣、天叢雲の剣を受け取って東征に旅立ちました。その剣が相模/駿河で草をなぎ払ったことから「草薙剣」と呼ばれるようになりました。←これが熱田神宮のご神体。 ですから、壇ノ浦で水没した剣は、天叢雲の剣の新剣のほうだったようですね。新剣といえども、崇神天皇の時代より、宮中で約千年ちかく大切にされていた剣なのです。 神器のうち勾玉と鏡は京の都に還ったものの、剣は失われたまま。皇室の一大危機であると考えた後白河法皇は、大捜索をさせます。 後白河法皇(右 画像)は安徳天皇の祖父です。ちなみに平清盛は外祖父にあたります。 海女(あま)に海中を探させることはもちろんのこと、寺社に宝物を寄進し、僧たちに祈祷させます。 さらに鎌倉の源頼朝も、何回か大捜索を命じています。つまり、国をあげての宝剣大捜査網が張られたのです。 しかし、ついに見つかりませんでした。 三回クリックすると大きな絵に↓ 源平盛衰記図会 1800年 宝剣探索 ここに悩ましい問題があります。海に沈んだ剣は、オロチのしっぽから出たとされる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の模造品=レプリカにすぎないのか?という点です(そう、考える人たちもいます) それとも・・・・・ 単なるレプリカであれば、なぜ国をあげての大捜索をしたのでしょう?その後帝位についた第八十二代後鳥羽天皇も、宝剣のゆくえを探しまくりました。なぜなんでしょう? この件を熱田神宮の宝物係長の手塚晴彦氏に、恐るおそる質問された方がいます。『神祇文学として読む平家物語上下 』の著者、佐藤太美氏です。下巻 P322「草薙剣の本体を護持される方々は、壇ノ浦で沈んだ草薙剣をレプリカと考えておられるのか?」と。 熱田神宮の手塚氏は、事もなげに答えてくださったそうです。 「ああ、あれはレプリカというものではありません。本物なのです」 すなわち、沈んだ剣は熱田神宮の剣の<分身>であって「模造品」ではないと言われたそうです。<分身>なら本物の一部にちがいない、「壇ノ浦で沈んだ剣はレプリカにあらず」と佐藤氏は述べています。 <分身>とは別御霊(みたまわけ)。すなわち、分霊です。神道の場合そうなりますね。なるほどそうであれば本物です。 当時もそう理解していたのでしょう、だからこそ、皇室も鎌倉幕府側も必死に捜索したにちがいありません。 で、みなさん、あの宝剣、海の藻くずになり、消えてしまったとお考えですか? 『平家物語』によれば、 「スサノオのみことに斬り殺されたてまつし大蛇(ヤマタノオロチ)、霊剣を惜しむ心ざし深くして、八のかしら八の尾を表事(ひょうじ)として、人王八十代の後、八歳の帝となって、霊剣をとりかへして、海底に沈みたまふにこそ」と申す。千尋の海の底、神龍の宝となりしかば、ふたたび人間にかへらざるもことわりとぞおぼえけれ」 WOW!つまり、スサノオが退治した(or 退治したと思った)あのヤマタノオロチが、霊剣をスサノオに奪われたことを、ずっと無念に思っていたんだそうです( ああ、知らなかったなぁ、お宝をなくしたオロチの無念 、そんなに悔しがっていたとは) そのため、霊剣を奪回するため、安徳天皇として、この世に生まれ変わり、その八歳のみぎり、剣とともに海の底に沈んだ。 その証拠は、八つの頭、八つの尾という形状に合わせた第八十代の後の第八十一代安徳天皇としての転生、八歳の帝として海に帰るというのが、その符号である。 すなわち霊剣は、海の底の神龍=龍神のものになり、二度と人間界へは戻らない と『平家物語』は語っているのです。 『源平盛衰記』では、このあたり、もっとスゴイことが書かれています。 海中に消えた草薙剣をさがして、壇ノ浦の海女が高僧らの書写した如法経=法華経を身にまとい、海底の金銀の砂きらめく華麗な龍宮を訪れ、「宝剣のゆくえを知りませんか?」と聞くと、庭に通され、見ると、 巨大な大蛇=神龍(龍神)が、剣を口にくわえ、七〜八歳の男の子を抱いているではありませんか。 目は日月のように光り輝き、口は朱色。 紅(くれない)色の舌をプルプル打ち振りながら、 「日本の使者よ、帝(みかど)に伝えなさい。宝剣は、日本の宝ではなく、龍宮城の大切な宝である。 わしの次男が、尾と頭が八つあるヤマタノオロチだったのだ。 スサノオに剣を奪われたので、安徳天皇になって生まれ、源平の乱を起こし、ついに剣を取り返したのだ。 口にふくんでいるのが宝剣。抱いているのが安徳天皇である。剣は永久に日本に返すことはない」 そういうわけで、宝剣は永遠に龍宮城のものとなってしまったらしいのです。 私、知りませんでした、あのオロチが神龍=龍神の次男さんで、安徳天皇として転生されていたことを。 皆さん、この件ご存知でした? 次男さんが活躍されたことはよくわかりましたが、長男さんは何してるのでしょうね? それにしても龍宮城ですよ! わだつみのいろこの宮 青木繁 1907 重文 石橋美術館 たしか、記紀のなかで、浦島太郎や「海幸彦 山幸彦」の話の山幸彦が龍宮に行ってますね。 左の絵は、兄の海幸彦から借りた釣り針をなくした山幸彦(上)が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(いろこ)のごとく造れる」宮殿へとくだり、向かって左のトヨタマヒメ (豊玉毘売)とその侍女に出会う場面です。 ←ここ龍宮なんです。ちょっと西洋風ですが・・・ 「草薙剣が龍宮城にある!」なんて話、現代人が聞けばまったくのおとぎ話。 しかし、源平合戦の直後の中世の日本では、この話は大まじめに論じられていました。それも当時の最高の知識人や学者のあいだで。 そして龍宮説は支持されていたのです。 当時の人々にとって、幼い安徳帝が海の藻くずになられたこと、さらに王権の象徴、三種神器の剣の消失は大変ショックな事件だったようです。それをどうとらえてよいのか、茫然自失だったのでしょう。今の言葉で言えば、パニックだったのでしょう。 剣の消失は、王権の正当性をも揺るがす事態につながりかねません。それは後白河法皇の痛恨事となりました。 天台座主だった慈円(西行と親しくしていた)は、その著、『愚管抄:ぐかんしょう』の中でも取り上げているそうです。剣消失は、ほぼ次のような意味だとか。 「宝剣に象徴される武力は、これ以後は武家が担当するようになったので、もはや剣は朝廷に必要なくなった」と慈円は述べているそうです。源頼朝→ 三種の神器の中で、剣は軍事力を表す象徴(シンボル)です。 古代においては朝廷のプリンスたちが、みずから軍を率いて戦をしています。ヤマトタケル(実在については諸説)もその一人。彼はさしずめ将軍第一号という存在でしょうか。 そうそう、勇ましく出陣された神功皇后(実在については諸説)もおられました。 その後朝廷は、戦を、源氏や平家などの武家集団に任せるようになったのですが、その支配権はまだ朝廷側にありました。しかし、源平合戦以降、朝廷は武力にたいしてコントロールを完全に失います。 平家を滅ぼした源氏の源頼朝は、鎌倉幕府をひらきます。 それは、日本で初めての朝廷から独立した本格的な武家政権でした。(赤字はWikipediaの説明) でも不思議ですね。たとえ戦闘のさなかとはいえ、朝廷の武力のシンボルの宝剣が消失し、その時期に合わせるかのように、本格的武家政権ができるなんて。 またまた、C.G.ユング先生を持ち出して、恐縮なんですが、これって、ユングのいう「共時性=シンクロニシティ」が歴史の流れの中で、はたらいたように私には思えてならないのですが・・・・・ さて、海に消えた草薙剣は平家物語が語るように龍宮城にあると思われますか? 記事冒頭の写真は、安徳天皇を祀る下関市にある赤間神宮です。「龍宮づくり」と呼ばれるもの。 まるで龍宮城の外観を見るようですね。赤間神宮の造りを見ると、後世の人たちは、幼くして海に没した安徳天皇は剣とともに、龍宮城にいらっしゃるとやはり考えた、or そう信じたかったように思われます。 明治九年に明治天皇の皇后、昭憲皇后は次のような歌を残されています。 いまもなお 袖こそぬるれ わたつみ(海)の 龍の都の みゆき(御行)思へば おわり 長いのを読んでくださいましてありがとうございました。 ■前の記事、ヤマトタケルの草薙剣 竜の剣 2■へもどる 平家関連記事■平家落人の里 湯西川温泉を訪ねて■へ ■世界遺産 安芸の宮島 厳島神社を訪ねて■へ 海中写真3点はWikipediaよりお借りしています。 内緒話 私はあの草薙剣は龍宮城にあると思っています。祟神天皇の御世(みよ)といえば、神代といえるほど大昔。それから約千年、帝(みかど)たちは、ひたむきに祈りをささげ、祝詞(のりと)をあげてきたことでしょう。その祈りの言霊(ことだま)と、後の世の人々の哀惜の想いは、透明な波動の粒子となって響きあい、光きらめく 一振りの美しい剣を紡ぎだしたにちがいありません。 霊剣は、三次元ではない、異なる次元にある龍の遊ぶ宮に、鎮(しず)まっていると信じています (←最近はファンタジー・モードになっている私) .................................................................................................................................................................. 以下は参考です。 実は熱田神宮のご神体<草薙剣>を見た人がいます。「江戸時代の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。それによれば長さは2尺8寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。神剣を見た神官は祟りで亡くなったとの逸話も伝わっている」 草薙剣 Wikipediaより ←詳しくは また■三種神器 Wikipedia■もよろしければ参照してください。 建礼門院壇ノ浦で救われた建礼門院は京都に護送され、髪をおろして出家します。 時に29歳。そして京都大原の地に庵を結びました。 彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏三昧で過ごして、平家 の人々の霊を弔います。出家の翌年、彼女を気遣った後白河上皇が庵を訪れ ました。その時建礼門院は涙が止まらなかったといいます。 草薙剣の「くさなぎ」の語源についての異説研究者の間ではクサは臭、ナギは蛇の意でもともとの原義は蛇の剣、物凄い蛇だというのが有力説。 そうなると言葉は悪いですが、「スゲェー大蛇の剣」って意味なのかしら? 岩波文庫版『日本書紀』の補注にこう書かれています。 「沖縄では青大将をオーナギ・オーナガ(奄美)・オーナギリ(加計呂島)などという。つまり、ナギは蛇を意味する。また、秋田県では、虹をノギというが、虹と蛇とは、しばしば同じ語でいわれるものであり、ノギはナギの転と見られる。従って、本州の北部にも、ナギ(蛇)という例があったものと思われる。してみると、ナギは古くは蛇の意であったと認められる。クサは臭シの語幹。糞(クソ)と同根。猛烈で手のつけられない性質をいう。悪源太義平の悪のように、獰猛・勇猛の意が古義であろう。してみると、クサナギノツルギとは、獰猛な蛇から出た剣の意が、最初の意味で、クサナギが草薙に連想されるところから、後に草薙をして火から身を守るという伝説と結びついたのではなかろうか(佐竹昭広説)。 『日本書紀(一)』(岩波文庫 黄4-1、1994年第1刷発行、補注1-96 p.358 ![]() 『明日香幻想』 草薙剣の紛失などをモチーフにした古代大河ロマンがコバルト文庫から出ています。史実に忠実とはいえませんが、十代の方や二十代の方向けのもので、古代史に親近感を抱かれるかもしれません。結構面白い。 |
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なるほど〜。そういうことなんですね。楽しみました。 |
norako 2008/03/16 15:39 |
コメントありがとうございます。草薙剣については本当にさまざまな説があるようです。ここで紹介したのは有力な説のひとつで、私もそうじゃあないかしら?と思ったものです。皇室の三種神器のうち、勾玉は古来よりのオリジナルというのが有力説のようです。他の二つは形代(かたしろ)であるとの見方がWikipediaに載っていました。記事中のその部分をクリックすると詳しい説明にいきます。謎が多く想像を掻き立てられますね。それに庶民は見ることができないものなので、結局謎のままなんでしょうね。三種神器をテーマにしたゲームもいくつかあります。剣と玉、鏡の三点セットって、みなが憧れをいだく組み合わせですね。日本人として、祖先伝来のDNAに埋もれている記憶を刺激するのかもしれません。 |
サファイア 2008/03/16 21:06 |
すごいですね〜〜〜〜!!! |
モニカ 2008/03/19 13:50 |
モニカさんこんばんは。実は昨夜そちらに行ったのですが、コメント欄動かなかったんですよ。ウエブリブログ最近おかしいですね。ホントに謎だらけですね。だいたい一般には絶対公開しない剣だから年代を測定しようにもできないですよね。このあたりの話はもっとスゴイことがまだまだあるのですが、ネット上ではちょっと無理なものも多々あります。でも謎につつまれているほうがいいかもしれませんね。神秘の剣として。またあとでね。コメントありがとうございます。 |
サファイア 2008/03/19 19:41 |
そうでしたかー |
モニカ 2008/03/19 19:57 |
はじめまして、気になる記事なのでコメント書き込みさせていただきます。 |
みかん 2008/03/20 18:29 |
はじめまして。そうなんですよね。頼朝の母は、熱田大宮司、藤原季範の三女で、出生は熱田or京都と言われていますね。熱田神宮は源氏とは縁がふかく、足利氏の祖である、義康の母も熱田の宮司の娘さんですね。源義経が頼朝に疎まれ、失脚したのは、宝剣を壇ノ浦で消失させ、その後見つけられなかったことも大きな原因の一つとも言われています。義経と頼朝は、異腹ですからね。頼朝が壇ノ浦に居合わせたら、もっと注意深く戦をすすめたのではないでしょうか。たぶん、頼朝には、母から受け継いだ、草薙剣についての知識がきちんとあったのではないかと思われます。スゴイ符号ですね。コメントありがとうございます。 |
サファイア 2008/03/21 14:26 |
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