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光源氏が須磨に流されたおりのわび住まい跡との言い伝えをもつお寺には、その石碑が立っています。 「源氏物語千年紀」のポスターも風にゆれています。 昔は「源氏寺」と呼ばれたり、「源光寺」と漢字で書かれたという「現光寺」。 「源光」であれば、まさしく「みなもとのひかる」ですね。 坂から振り返れば、夏の海が光っています。 真っ青な海を隔てて、夏雲の下、対岸には紀伊半島が浮かび、沖合いを貨物船がのんびり航行しています。 JR須磨駅ふきん 上の写真、帰省した折に撮りました。 ちょうどこの海の近くに現光寺はあります。 画像には写っていませんが、白砂の浜がこのあたりから、ずっと東のほうへ長く続いています。 須磨海浜公園あたりになると、浜はずっと広くなり、いわゆる白砂青松(はくしゃせいそう)です。 泳ぐのは須磨駅の前ではなく、海浜公園ふきん ↓がお勧め。 須磨区 HPより いにしえより須磨は風光明媚で知られる土地。 昔は松林をともなう広大な白砂の浜が東西に果てしなく伸びていたそうです。 浜の北側には六甲から連なる緑の山々が迫っています。 第十二帖 須磨 光源氏 26歳〜27歳 朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏はみずから都を離れ、須磨に退去します。訪ねてくる人もまれなつらくわびしい日々を送っています ↑ 現光寺は、芭蕉が訪れた頃(江戸時代)、光源氏が侘び住まいした所と語り継がれていたようです。 しかし、今は誰もが光源氏が物語の主人公であることは知っていますので、まさか彼が住んでいたとは思っていません。 そして地元では、ここは、光源氏のモデルの一人、「源高明 みなもと の たかあきら」が須磨に流された折の侘び住まいした所である、としているのです。 源高明( 914 - 983 )は平安中期の貴族。 父は醍醐天皇。十番目の皇子だったため、臣籍降下して、「源」姓に。 京都右京四条に壮大な豪邸を建設し、「西宮左大臣」と呼ばれました。左大臣まで昇進したものの、安和の変で、大宰府(だざいふ)へ配流となり、失脚しました。 太字クリックすると、説明へ たしかに、源高明は光源氏と同じく天皇の皇子で、左大臣になっており、六条院を彷彿させるような壮麗な邸宅をもっていました。 ところが、高明が流されたのは、九州の大宰府です。 須磨に住んでいたわけではないのです。もしかすると、大宰府に向かう途中、一時住んだのかもしれませんが・・・・・ よくわかりませ〜〜ん! 源高明が住んだ土地とするのは少し無理があるようですね。 ところで、天皇の不興を買い、じっさいに須磨に流され、3年ほど侘び住まいをした平安時代の貴公子がいます。 紫式部が源氏物語を書く約100年ほど前のことです。在原業平のお兄さんの在原行平(ありわら の ゆきひら 818−893)です → 須磨浦を読んだ歌をつくっていますよ (古今集) ↓ わくらばに とふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶとこたへよ 須磨区には、行平ゆかりの地名(行平町)や史跡が数多く残っています。 さらに、行平の色っぽい話が伝わっています。 須磨でわびしい日々を送っていた行平さん、浜で海女の姉妹と出会います。 姉妹を「松風」「村雨」と名づけて寵愛したそうです。 ふーん、姉妹ふたりを愛人にしたわけですね。 時代が異なるとはいえ、抵抗ありますね。 この伝承は謡曲の「松風」のモチーフになっています。 行平は3年ほど侘び住まいをしていたのですから、愛人はきっといたことでしょう。 ところで、この絵、なんだかおかしくありません? 昔の海女さんがセミ・ヌードであるのはわかります。けれど、肌の色が異常に白い!特に右の海女さん、京男の行平より色が白いなんてこと、ありうるでしょうか? ちょこっと二回ほど海に入っただけで、こんがり日焼けした私(日焼け止めを塗りましたわよ!)、こんなの「アリエナ〜イ」と思うのですが・・・・ さて、紫式部は「須磨」の巻から、源氏物語を書き始めたと聞きます。 「須磨の巻」の中では行平をしのばせる箇所もあることから、光源氏の須磨行きについて紫式部の頭にあったのは、行平の須磨配流だったのでしょう。 光源氏じたいのモデルはいったい誰なんでしょう? 色々な説がありますね。 もしかしたら、源高明も含めて複数の人をミックスしたのかしら? ( 記事末に光源氏のモデルではないかと言われる人物を記載) ちなみに、行平の弟の在原業平は、神戸市の隣の芦屋市に別荘をもっていた、と言われています(伊勢物語)。兄弟はよく似ていますよ!業平のほうにも、芦屋浜で美しい娘に出会い、愛人にしたという言い伝えがあります。 芦屋は、かつて白砂青松の美しい浜が広がっていました。 しかし、芦屋市は埋立造成工事をおこなって開発し、今は見る影もありません。 ほんの少しだけ松林が残り、破壊した後、人工の小さな浜をつくっています。 そして源氏物語にもしも「須磨」の巻がなければ、神戸市だって高度成長期に須磨海岸の埋立造成をやっていたかもしれません。 ←大げさな仮定かもしれません。 けれど私は、源氏物語がもつ威光が歯止めの一つになった可能性があるのでは? と内心思っています だって、すぐに海を埋め立て人工島( アイランドって呼んでいます)を造ったりするのが好きな市ですからね。 紫式部さん、ありがとう!「源氏物語」は偉大です! 関連記事 ■体が香る人 源氏物語 薫の君のような人は実在した? ■へ ■紫式部(ムラサキシキブ)と小式部(コムラサキ) 源氏物語千年紀 B ■へ ■虎屋 和菓子展 大和源氏〜 源氏物語千年紀 @ ■へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 参考 <光源氏のモデルとされる貴公子たち> 源高明(みなもとのたかあきら) 源融(みなもとのとおる) ←クリックすると説明 上の二人は有力候補だそうです。 さらに藤原道長 光孝天皇、藤原伊周、在原業平 など <光源氏>という呼び名は、<みなもとのひかる>という氏名ではなく、光り輝くような源氏という意味だそうです。 <光>さん ではないそうです。 お寺は、平成5年の阪神大震災で本堂と鐘楼が倒壊。 新たに立て直されました。 見渡せば ながむれば見れば 須磨の秋 芭蕉 現光寺にある句碑 → 芭蕉が源平の古戦場や須磨の巻の舞台を訪ねたのは春(初夏)でした。須磨の秋の名月とは海面に映る月なのですが、秋ではなかったので、名月を見ることができなかったんだそうです。 よっぽど悔しい想いがあったみたいですよ。 月はあれど留守のやう也須磨の夏 ←こんな句もつくっていますから。 読みさして 月が出るなり 須磨の巻 子規 A平家物語ゆかりの須磨寺は現光寺から歩いて5分ほど。 平敦盛ゆかりの「青葉の笛」などの多くの文化財があります。 そのお話はまた別の機会に。 ■源高明 Wikipedia■へ クリックすると説明へ ■在原行平 Wikipedia■へ ■須磨観光協会HP■へ |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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ご無沙汰してしまいました。 |
norako 2008/09/07 14:16 |
norakoさん、お久しぶりです。お忙しいそうですね。行平が須磨でどう暮らしてかは定かでない面が多いのですが、一応、松風、村雨(海女ではないという説が有力)のお墓も史跡としてあります。「松風」は謡曲になっていますので、後世の人が創作/脚色したのでしょうね。海女って、都人から見れば、とてもエキゾチックだったんでしょう。 それから業平の方は、芦屋には、業平橋が東京と同じようにあるんですよ。言問橋はありません(笑)お団子屋さんがないですから。 |
サファイア 2008/09/07 20:05 |
須磨の海の景色、癒されます。心にしみるいい写真ですね。 |
MINOC 2008/09/07 23:31 |
MINOCさま、ありがとうございます。小倉百人一首の行平卿の有名な歌、実は須磨にもその歌碑があるんですよ(笑)「いなば」について異なる解釈をしている人たちもいて・・・(笑) 私も「いなば」は因幡だと思いますが・・・ |
サファイア 2008/09/08 00:36 |
こんにちわ |
サザンエース 2008/09/10 16:40 |
サザンエースさま、こんばんは。須磨でお生まれになったのですね。須磨の海浜に沿ってJRや車で通ると、一面の海が気持ちを晴れやかにしてくれます。きっと小さい頃に海水浴なさったと思いますよ。 |
サファイア 2008/09/10 21:40 |
おひさしぶりです! |
モニカ 2008/09/12 15:37 |
モニカさん、お久しぶりで〜〜す!お元気そうで嬉しいです。絵本コンテストとか、とっても忙しそうなので、無理しているんじゃあないかな?と少し心配していました。 |
サファイア 2008/09/12 20:20 |
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